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どうなっているんですか、この「大学」

2006年6月21日
88.89年法学部学術団体本部代表
90年「全学」バリケードストライキ首謀者
91年学生会館学生連盟理事
K.M

 立て看板を出しただけで退学処分になるかもしれない、驚愕した。学生にとって退学処分はある意味「死刑」と同じである。青年期の多感な時期、本を読み、仲間と語らい、社会的矛盾に気がつき、それをどのように解決するか悩み、行動する、そのような機会を奪われるからだ。このような機会を奪われることは、その後の人生に於いても多大な影響を及ぼすであろう。では、彼らがそのような処分を受けるような行為をしたのであろうか。たかだか立て看板を出しただけである。明らかに行為と処分、罪と罰の均衡を失すると言って良いだろう。電柱に広告を貼り付けてはいけないから、貼り付けたらその量刑は死刑、というのと同じである。
 しかしはたしてそれだけであろうか。「学生集会規定」、「学生掲示規定」なるものがあるが、この「規定」が実質的具体的に運用されたことがあるのだろうか。私が大学にいた時代、立て看板出すのは勝手、ビラを蒔くのも勝手、ステッカーを貼るのも勝手、集会を開催するのも勝手、集会後学生部にデモをするのも勝手であり、この「規定」が運用されたなど聞いたことがない。また、近々の先輩方に聞いても、数十年前に卒業された先輩方に聞いてもない。更に卒業した後、後輩諸君に聞いてもないのである。要はこの「規則」は運用実績のまるでない「死文」なのである。
 本来このような「死文」を根拠に処分を科すこと自体が全く合理性を欠いており、「行為と処分、罪と罰の均衡を失する」と書いたが、それ以前の問題として、処分の必要不可欠性によって根拠付けられる場合でないにもかかわらず、処分に値しない行為を処罰しているのである。行為がないのに処分がある、罪がないのに罰がある、近代以前の発想性である。
 大学はそのHPの「法政大学市ケ谷キャンパスにおける一部学生の抗議活動について―法政大学の基本姿勢―」なる文章で次のように語っている、「本学は憲法の定める思想信条の自由や表現の自由の重要性を十分に認識のうえ大学運営を行っております。」と。本来、国家と個人の間にしか適用されない憲法規定の部分を、私人間(この場合は大学と学生)にも適用するのだ、という姿勢があると私は判断した。それであるならば、「死文」をもって処分に値しない行為を処罰した文学部教授会は、本処分を即時白紙撤回すべきである。自ら発した「基本姿勢」なる言動については、自ら責任を持つべきなのである。また、法学部教授会に於いては本来処分に当たらない行為であるのだから、当然のごとく処分すべきではない。
 よく悩んで、行動してほしい。「悪は凡庸である」から。

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